ハージェ・ナスィールッディーン・トゥースィー
ハージェ・ナスィールッディーン・トゥースィー
ハージェ・ナスィーレッディーン・トゥースィーと知られるアブージャアァファル・ムハンマド(1201年-1274年)は、イランの哲学者・数学者・シーア派を代表する進学者で、イルハン朝の創始者フレグに宰相に起用された。両親はホラーサーンのトゥースに移住したサーヴェのジャフルード村の出身である。ハージェ・ナスィールはトゥースに生まれ、教育を始めた。まもなく当時の一般的な学問のすべてにおいて頭角を現した。コーランやイスラム法学や原理をシェイフェ・トゥースィー(995年-1067年)とセイェド・モルテザー(965年-1044年)の弟子である父の下で学んだ。その後、トゥースィーは、当時ホラーサーン南方のクヒスターンにおけるニザール派の太守(ハーキム)であったナースィルッディーン・ムフタシャムの庇護を受け、人間道徳や家族、政治についての倫理について論じた『ナースィルの倫理学』を献呈している。トゥースィーは、イスマーイール派のとりでに、多くの著作を記した。モンゴルのフラグ・ハンはイランを攻撃し、イスマーイール派の統治を終わらせると、トゥースィーを召抱え、彼を宰相に選んだ。
ハージェ・ナスィールは、シーア派を代表する最高の神学者で、シーア派の神学は彼の業績による向上させる。神学に関して最も重要な著作であるハージェ・ナスィールの『信仰の闡明(タジュリード=アル=エアテガード)』は、記した当時から名声を博し、多くの学者がこの説明に関する賛否を唱えた。またフレグはトゥーシーのために1259年、マラーガに天文台を建て、天文学の進歩に貢献したマラーガの天文学者の最初の一人であると考えられている。彼は当時の一般的な学問全般、とりわけイスラム法学、哲学、修辞学、論理学、数学、天文学や倫理学に精通しており、これらのほとんどの分野における彼の貴重な著作は今もなお残っている。例として論理学における貴重な著作である『引用の基本』が挙げられる。
ハージェ・ナスィールの最も代表的な著作は『指示の注釈』で、哲学的にはイブン・シーナーの伝統を受継ぎ,彼の『指示と忠告の書』に注釈を施する著作である。この本はイスラム哲学の重要な資料の一つとされる。
ハージェナスィールはバグダード近郊カーズィマインに葬られている。
イラン暦エスファンド月5日(西暦2月24日)は、ハージェ・ナスィールの記念日として「技師の日」と定められている。
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ハージェ・ナスィーレッディーン・トゥースィーと知られるアブージャアァファル・ムハンマド | |
(1201年-1274年) |