ジャラール・アーレ・アフマド
ジャラール・アーレ・アフマド
ジャラール・アーレ・アフマド(1923年-1969年)は、イランの作家、政治・社会思想家、翻訳者である。ジャラーレ・アーレ・アフマドと知られるセイエド・ホセインは、テヘラン市のセイエド・ナスロッディーン区に生まれた。父親セイエド・アフマド・オラーザーニーは、公証役場を運営しながらテヘランに位置する二つのモスクの礼拝指導者(イマーム)であった。母親アミーネ・ベイゴム・イスラームボルチーは、聖法学をはじめとするイスラム諸学に通じ、イスラム法の代弁者としてイスラム社会で重要な役割を果たす人々であるウラマーの一人であるアーガー・ボゾルグ・テヘラーニーの姪であった。小学校卒業後、父親に進学を許されずバーザールの徒弟となる。バーザールに働きながらダロルフォヌーン専門学校の夜学に通った。高校卒業後、父親にイスラム法学を学ぶためにイラクのシーア派の聖地ナジャフへ派遣された。しかしナジャフで3ヶ月滞在し、テヘランへ戻った。後に高等師範に入学し、1946年に高等師範を卒業した。1951年、テヘラン大学(博士課程)を中途退学し、1953年から著述家として仕事をし始めた。一方、1944年にトゥーデ党(イラン人民党)員になり、3年後、政治を離れた。1950年に作家スィーミーン・ダーネシュヴァルと結婚した。モサッデグとイランの石油国有化運動の時代に入ると、国民戦線のメンバーとなり、再び政治と関わるようになった。しかし二年後、国民戦線の幹部と対立し、同党から離脱した。
1968年2月、ストに関して師範学校教官を追われて後にテヘラン大学社会学部をつとめた。しかし同年6月に大学を追われて、国家治安機構(秘密警察サーヴァーク)に教授禁止された。アーレ・アフマドは、1969年ギーラン州アラーサムの山小屋で急死した。今やテヘランに位置するジャラール・アーレ・アフマドの自宅が、「ジャラールとスィーミーンの記念館」になった。
ジャラールの文学的業績を見ると、彼は政治、西洋かぶれ、経済、知的活動、石油などの様々な問題をテーマにした。彼の作品は大きく小説、旅日記と随筆、評論集、訳書の四つに分けられる。代表作品は、『相互の訪問』、『セタール(楽器の一種)』、『校長』、『ヌーンとペン』、『ザフラー地区の非トルコ住民』、『メッカ巡礼記』、『西洋かぶれ』、『知識人の奉仕と裏切り』、『早急な価値判断』、ジャン=ポール・サルトルの『汚れた手』のペルシア語訳書、ウジェーヌ・イヨネスコの『犀』のペルシア語訳書、アンドレ・ジッドの『地の糧』のペルシア語訳書などとなる。
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