イスラーム到来以後のイラン文学(詩)
イスラーム到来以後のイラン文学(詩)
イスラーム到来以後のイラン文学は、一般にペルシア文学と知られている。イスラーム到来以後のペルシア文学の黎明期は、サーマーン朝(857年-999年)期とダリー語まで遡る。ダリー語の文学は、ホラーサーン地方と中央アジア南部地域(マー・ワラー・アンナフル)で、ルーダキー(?‐940年)やフェルドウスィー(934年‐1025年)などの大詩人の出現により非常に栄え文芸復興期を迎える。この時代に用いられた主な詩形は、ギャスィーデーで、その次いでギャトアァェ、マスナヴィー、ルバーイーであった。
ガズナ朝(955年‐1187年)時代にダリー語の詩は最盛期を迎え、この時代の代表的な作品はフェルドウスィー著『シャー・ナーメ』である。セルジューク朝(1038年‐1194年)が樹立され、これまどのギャスィーデーの素朴な表現に比べて、この時代には多くのアラビア語彙(ごい)が用いられ、文体が華麗になって、サナーイー(?‐?)やアッタール(1136年‐1230年)などの詩人の作品に神秘主義が導入された。ニザーミー(1141年‐1209年)もこの時代の代表的な詩人である。
13世紀後半から14世紀前半にかけてモンゴル軍の侵入、支配によりペルシア語の詩の中心地はホラーサーン地方からイランの中部地方に移り変わり、表現と内容において新運動を迎え、神秘主義の詩も完成の境地にまで到着した。またこの時代にマスナヴィーとギャザルという詩形が流行し、サアディー(1210年‐1292年)やルーミー(1207年‐1273年)やハーフェズ(1326年‐1390年)などの大詩人が現れ、優れた業績を実現することができた。
ティムール朝(1370年‐1507年)の支配下では、ペルシア語の詩ははしだいに衰えをみせる。この時代の最も有名な詩人は、ジャーミー(1414年‐1492年)であった。
サファヴィー朝(1501年‐1736年)が創設されるとペルシア語の詩は王朝の政策とかみ合わず急速に衰退し、この間、イランの詩人でインドに移住する者が続出、インド・スタイルという作風で作詩が行われるようになる。サファヴィー朝下においては、シーア派国教政策に伴い、預言者ムハンマドと預言者ムハンマドの一門とを称えるために作られた一種の宗教詩は流行し、モフタシャム・カーシャーニーのタルキーブ・バンドという詩形で作られた詩がその体表的な詩である。この時代の代表的な詩人は、ワフシー・バーフェギー(1532年‐1583年)やキャリーム・カーシャーニー(1581年‐1651年)などとなる。
ガージャール朝(1789年‐1925年)時代の初期に、ホラーサーン・スタイルといらーく・スタイルとの伝統が復活し、詩人による「復帰の運動」が行われ、代表的な詩人は、ヴェサール・シーラーズィー(1783年‐1843年)とフォルーギー・バスターミー(1798年‐1846年)である。
近現代ペルシア語の詩の初期である立憲革命期において、ミールザーデ・アェシュグー(1893年‐1924年)やパルヴィーン・エァテサーミー(1907年‐1941年)やモハンマドタギー・バハール(1886年‐1951年)などの詩人は立憲革命期の文学を形成した。近現代における、伝統的韻律から脱却した新体詩(自由詩)が生まれた。この新体詩運動の先駆者・指導者がニーマー・ユーシージ(1897年-1960年)であった。新体詩を代表する詩人は、アフマド・シャームルー(1925年-1985年)、メフディー・アハヴァーン・サーレス(1929年-1990年)、ソフラーブ・セペフリー(1928年-1980年)などとなる。
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