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アリーアクバル・デフホダー

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デフホダー

アリーアクバル・デフホダー(1879年-1956年)は、イラン人の記者、詩人、言語学者である。1879年テヘランに生まれ、ギャズヴィーンの地主であった父親バーバー・ハーンはデフホダー誕生の数年前ギャズヴィーンからテヘランに移住した。父親はデフホダーが9歳のときに亡くなって、母親の監督の下にハージュ・シェイフ・ハーディー・ナジュムアーバーディー主教学校の教授だったゴラームホセイン・ボルージェルディーという先生の下で伝統的なイスラーム諸学(アラビア語、法学、神学、哲学)を学んだ。またシェイフ・ハーディー・ナジュムアーバーディー氏からも学んだ。政治科学マドラサ(学校)の一期生として入学し、新しい科学とフランス語を学んだ。卒業後に外務所に雇用され、バルカン半島担当の大使モアーウェノッドウレ・ガッファーリー・カーシャーニーの秘書としてヨーロッパに赴任した。イラン立憲革命が発生したほぼ同時にイランに戻って、立憲主義者の列に入った。

立憲革命期に強い影響力を持つことに成功した評論雑誌とされる『スーレー・エスラーフィール(エスラーフィールの角笛)』の編集助手兼執筆者として雇用された。同紙において「チャランポラン」と題したナンセンス政治風刺コラムを手掛け、ダホウというペンネームで署名した。ダホウ以外のペンネームは、ハルマガス、ゴラーム・ゲダー、ハサン・ダレ、ノホデ・ハル・アーシュなどであった。

1908年5月ある立憲主義者はガージャール朝第6代シャーモハンマド・アリー・シャーに殺害された後、デフホダーを含むリベラル派はヨーロッパへ逃げた。スイスのイヴェルドン・レ・バンでモアァーゼドッサルタネ・ピールニャーと協力し、『スーレー・エスラーフィール』の編集発行を続けた。そしてトルコのイスタンブールで『ソルーシュ』というペルシア語の雑誌を刊行した。1956年2月テヘランで亡くなって、エブネ・バーブーイェ墓地に埋葬された。

デフホダーは多数の著作と訳書があるが、もっとも重要な著作は、『デフホダー辞書』である。『デフホダー辞書』の完成時には、デフホダーによる最初の企画から45年の歳月が経過していた。

デフホダーは現代ペルシア文学の散文の分野において先駆者として知られ、俗語を自分の作品に用いた。1979年『デフホダー辞書』の最終巻が刊行されると同時にデフホダーは、生誕100周年を記念してユネスコの祝賀を受け、賞賛された。

アリーアクバル・デフホダー
デフホダー

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Islamic Culture and Communication Organizationは、文化イスラム指導省に所属するイランの組織の1つです。 1995年に設立されました。[]

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